はじめに
私はキャリア35年のアマチュアトランペッターです。
現在、Bbトランペット3本にCトランペット1本、ピッコロトランペット1本、スライドトランペット1本、フリューゲルホルンとコルネットをそれぞれ1本づつ所有しています。
中学2年生よりトランペットを吹き始めて45年経ちますが、10年間の空白期間があったため実キャリア35年ということになります。
そもそも私がトランペットを始めたきっかけはあまり自慢できるようなものではありません。
本来ならば、「トランペットが好きだから」とか「トランペットは格好いいから」とかがその理由でしょうが、私の場合はそのことよりも「メカニック的で分解したら面白そう」がその理由です。
全く音楽とは関係のない理由から音楽に接するようになりました。
それでも、一度始めたらとことんやり抜く性格なので、大して巧くもないのに人生の大半をトランペットに費やしてさた訳です。
長い音楽(トランペット)人生を振り返ると、大きな節目が7つ程あります。大別すると次のようになります。
◆緊張の代役デビュー
(中学時代)
サブタイトル:人生の登り坂
【1969年4月】中学2年生
本文1年生の時は、科学部とテニス部に所属していましたが、2年生になってブラスバンド部へ入部しました。
私は生来、電気系のものや機械系のものが好きで、小学生の頃からプラモデルやラジオを組み立てたりしていました。
しかし、両親はこれには反対で何かと言うと「勉強しろ。勉強しろ」とうるさく言ってきました。
運動の方はあまり好きではありませんでしたが、友達からの誘いがあって軟式テニス部へ入部しました。
祖父と祖母が弟(男4人兄弟の2番目)と一緒に練習がてきるようにとテニスラケットを1本づつ買ってくれました。
そのテニス部はひどく封建的で先輩の言うことには絶対服従で、1年生にはラケットを使わせずに球拾いを強要しました。
部活で練習ができないので、家に帰ってから弟を相手に練習していました。
そんな訳で2年生になった時に例えラケット使って練習が出来たとしても、入って来る1年生に同じことをしなければならないかと思うと嫌気がさして、同じように感じた他の2人と一緒にテニス部を止めてしまいました。
代わりに入部したのがブラスバンド部です。
新しいクラスになって仲良くなった友達が、たまたまブラスバンド部に入っていて、トロンボーンを吹いていました。
最初はその友達と同じにトロンボーンを担当するはずでしたが、余っている楽器が無かったことと、私の唇が薄くてトランペット向きだという理由から、トランペットを担当することになりました。
トロンボーンよりトランペットの方が面白そうなので、内心ではむしろ喜びました。
ブラスバンド部はテニス部と違って民主的でした。しかし、ひどく貧乏な部で最初は私に割り当てる楽器がありませんでした。
1ヶ月後に新しい楽器が来るまで、先輩の吹いている楽器を練習前と練習後に借りていました。
穴の開いているだけでピストン(バルブ)が3本しか無い楽器がどうしてあんなにすばらしい音が出るのか不思議でたまりません。
分解して繁々とながめたりしましたが、これだけのものからどうしてドレミファソラシドが吹けるのかその時は理解出来ませんでした。
それならば、「とことんのめり込んで調べてやる」これが私がトランペットを今日まで続けている理由です。
新しいトランペットを先輩が吹き、それまで先輩が吹いていた楽器を私が吹くことになりました。
全体のラッカーが剥げ落ちていて、お世辞にも良い楽器とは呼べない代物でした。家に持って帰ることも許されましたので、土曜日には持って帰り家で練習しました。
本当は、吹くことよりも分解してその仕組みを調べる方に興味がありました。
そうこうしている内に、トランペットの腕前はめきめきと上達し、3ヶ月後にはハイBbが出るまでになりました。
担当するパートはいきなり1st(Top)からでした。
因みに私がこれまでに担当してきたパートはほとんどTopと2ndです。
これは単に、自分で言うのも変ですが、私の音がTop向きであったからだと思います。
唇は薄くて筋肉質、歯並びも良くて理想的な高音金管向きだと思います。
しかし、決してTopや2ndを吹ける技量を持っていた訳ではありません(その部分ではその後の音楽人生で苦労の連続でした)。
私がTopになったお陰で、もう一人の先輩が2ndに回りました。
このN先輩は薄い唇こそしていましたが、ハイノートが出ない方でした。
学生時代には序列見たいなものがあって、余程のテクニシャンでも無い限り、いきなりTopを吹かせてはくれません。
学生時代でTopを吹いたのが、中学2年間と高校3年それにに大学4年でした。
2ndを吹いたのが高校1年と2年それから大学3年で、3rdを吹いたのが大学1年と2年です。
入部した時からTopばかりを吹きました。なぜなら、譜面が読めなかったからで、メロディのはっきりしているTopの譜面ばかりを耳で覚えていたからです。
譜面が読めるようになるまでには半年程かかりました。
最初に覚えた曲は行進曲「コバルトの空」(作曲 水戸知章)でした。
トランットのファンファーレで始まる格好いい曲で、今でも譜面無しで演奏できます。
因みにこの頃に覚えた曲は全て部面無しで演奏できます。
はっきりとは記憶していませんが、この頃に祖父がトランペットを買ってくれました(確か弟の成績が良かったから褒美として買ってくれたものと記憶しています)。
ヒュッテルと言うドイツのメーカで、確か17,000円位だったと記憶しています。
品質的には粗悪品で半年も経たない内に、ラッカーが剥げ落ちました(日管のを買って置けば良かった)。
私は、斑に剥げ落ちた楽器を見るには忍びず、残っているラッカーを紙ヤスリで削ぎ落としました。
金属磨やクリアラッカーと刷毛を買ってきて、ピカピカに磨いた後に、刷毛でラッカーを適当に塗りました。
そして火鉢で「焼き付け」と称してラッカーを焼き付けました。すると、見事に購入時のような輝きを取り戻したではありませんか。
今から思うと随分無茶なことをしたものだと反省しています。
それでも、その焼き付け塗装したトランペットほその後、立派に役目を果たすことになります。
さて、秋になっていよいよステージデビューの学園祭が近づいてきました。
このブラスバンド部はとても暇な部で、ステージは年に3回程しかありません。
メインがこの学園祭です。演奏曲は「巨人の星」と「怪物くん」確か「ドナウ川のさざ波」だったかな? 古いことなので定かではありません。
演奏の前日、学校帰りに幼馴染みのW(同じブラスバンド部)がこんな冗談を言いました。
「H(私のこと)は初めてのステージだよな」
「もしかして明日の演奏会で先輩が39℃の熱を出して演奏に出られなくなるかも」
「そしたらHがソロを吹くしかないな」と冗談を言いました。
翌日にそれがドンピシャリ的中してしまいました。
顧問で指揮者のA先生(女の先生)が私の所へ来て、「Kくん(ソロの先輩)が39℃の熱を出してお休みしてしまったの」
「代役でトランペットのソロをやってほしいの」と言いました。
私もTopの手前、何度かソロの練習をしたことは有りましたが、何せステージはこれが初めてで、ステージで演奏することの勝手が分かりません。
もう一人のN先輩にお願いしましたが、「俺は上の音が出ないよ」と言って辞退してしまいました。
結局、私が初ステージで初ソロと言う絶対絶命の窮地に立つことになりました。
そのソロは「巨人の星」でオープニングです。
リハーサルでは立派に演奏することができました。
A先生もほっとした様子で、「Hくん、その調子でお願いね」と言いました。
本番が近づくにつれ、私は心臓が飛び出る程、上ってしまいました。
これが初ステージの洗礼でしょうか?
演奏を開始して例のソロの部分がやってきました。
心臓はますます高なり「レーレレレーファソラー」と吹くべきところを、「レーレレレーファソソー」となってしまい、演奏は続行不能。
その後のフレーズは無音のままバック演奏を聞く状態になってしまいました。
学園祭の演奏は終了しました。
私のソロの失敗は誰も責めませんでした。
A先生も「代役だもの。自分を責めなくてもいいのよ」と言ってくださいました。
トランペット人生初の悔いの残るステージでした。
2回目のステージは新入生体験入学でした。この時も学園祭で演奏した曲と同じプログラムでした。
私の弟が来ていて、「兄ちゃん、トランペットのソロはいい音してたよ」と言ってくれました。
もうこの時は前のようには上がりませんでした。自分でも堂々の演奏だったと自負しています。
【1970年4月】中学3年生
私にとっては人生の中で最も高揚した時期です。
学校の成績は一度だけクラスでトップにもなりました。
成績が良かったお陰で両親もクラブ活動に対しては、何も言いませんでした。
またもや祖父が褒美として楽器を買ってくれることになりました。
そして今度は私の分としてアルト・サックスを購入してくれました。
5,6000円位だったと記憶しています。因みに私もサックスを吹けます。
3年生になった私は、野球の県大会の応援やら、2度目の学園祭で堂々のTopとして活躍しました。
何の曲を演奏したかは、2年生の時のようには覚えていません。
唯、このような曲を演奏したのを覚えています。
中学時代は吹奏楽コンクールには出演しませんでした。
指導できる先生がいなかったからです。
前述のA先生はコーラスの指導は出来ましたが、吹奏楽の方はからきし駄目でした。
そんな訳で中学時代はいい加減な演奏しか身に付きませんでした。
唯、一応Topだっただけです。
この頃から、高校時代に味わう挫折の兆しが現れます。
事の始まりはテレビです。当時、私はクラブ活動も学校の成績も絶頂期にありました。
しかし、間も無く学校の成績にのびなやみの兆しが現れて、「もっと勉強しなければいけない」と思う気持ちが強くなり、イライラがつのりました。
神経が過敏となり、テレビの音が耳障りに感じて、勉強に集中来なくなりました。
「勉強中にはテレビを消してほしい」と父母にお願いしましたが、祖父母がテレビが何よりの楽しみとのことで、聞き入れては貰えませんでした。
このことがキッカケで、私は全く勉強が手に着かなくなりました。
こんな最中に、祖母がトランペットを買うようにとお金をくれました。
そのお金を持って親父と二人でトランペットを買いに行ったのを覚えています。
購入した楽器はヤマハのカレッジモデル(確か初期モデル)で当時、23,000円だったと記憶しています。
祖母は、勉強が手に付かない私を見て不憫に思ったのでしょう。
私は内心では「テレビを消してくれた方がいいんだけれど...」と思いましたが、祖母が最初で最後に買ってくれた
(多分、なけ無しの年金を工面したのだろう)トランペットを受け入れて、一時は勉強にも身を入れました。
しかし、それは長続きしませんでした。
【閑話休題】
ニニ・ロッソとの出会い
この頃のラジオ番組(確かNHK FMだったと思います)でニニ・ロッソ特集を聞いたのが、最初の出会いでした。
有名な「夜空のトランペット」を初めて聞いた時は衝撃的でした。
朗々と響くレガート奏法には、例えようの無い感動を覚えました。
哀愁を帯びた日本人好みのする演奏は、当時の日本を席巻しました。
NHKの紅白歌合戦にもゲストで出演し、交通遺児の為に100万円を寄付した逸話も残っています。
--- 中略 ---
つづく